大失敗のRadio-Activity 第三回(後半)「批評の歴史と『大失敗』」(ゲスト:松田樹)

第三回(後半)



2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。

第三回は長さの関係で二分割!(後半)。
前半に引き続き、ゲストに中上健次研究者の松田樹さんをお迎えしつつ、今回は松田さんが批評の歴史を主に三点に分けて解説!

「政治運動の代補」としての批評とはいかなるものなのか? 文学研究者から見た「批評の歴史」と私たち「大失敗」の批評的実践の意義とは?

年末年始でお時間のある方は色々と遡って読んでみるのもよいのではないでしょうか…
ちなみに今回も松田さんが注釈をつけてくれました。

『大失敗』ラジオ注釈(松田樹)

◎「上下分ち書き」形式への補足

 このラジオでは文献が手元になかったため記憶違いをしているが、浅田彰による「上下分ち書き」形式の文章は、『インパクション』(91・8、特集ゲイ・リベレーション)掲載の「ゲイ・ムーヴメントのために」ではなく、『G S 2号』(84・11、特集POLYSEXUAL――複数の性)掲載の「性を横断する声」に、その一例が見られる(ただし、後述の通り、前者でも浅田の戦略は一貫していると思われる)。

 ここで浅田は、ドゥルーズ+ガタリ「生成する音楽――『ミル・プラトー』からの二つの断片」を上段に、ドミニク・フェルナンデス「料理万歳!『チューダーの薔薇』第一章」「『ポルポリーノ』からの断片」を下段に配置している。下段にて「フランスの同性愛作家」フェルナンデス(1)のテクストに託して異性愛規範から逸脱した芸術家(カストラート)や同性愛者の苦悩を内在的に捉えつつ、それを上段のドゥルーズ+ガタリの分析によって跡付け、かつ性の体験をポリセクシュアルな方向へと開いてゆこうとするのである。このような構成・配置こそ、対象への内在とそれに対するメタ言及という浅田の所謂「ノリ」/「シラケ」の二重戦略を示すものであり(2)、それが(往時の?)あるべき批評のスタイルであることを、「上下分ち書き」という形式によって強調することを収録中の発言は意図していた。

 「ゲイ・ムーヴメントのために」においても浅田は、恐らく同様の立場を踏襲している。「ゲイ」を自認する人々が主宰した集会での講演をもとにしたこの論考で浅田は、同性愛者のカムアウトを通じた「アイデンティティ」の闘争を評価しつつ、異性愛と同性愛という「二項対立」を超えた「差異」の戦略(すなわちポリセクシュアリティ)を提起している。それに相即して、「ゲイ・ムーヴメントのために」の末尾では――あたかも同特集にも散見される同性愛者のカムアウトのフォーマットを模倣するかのように――思春期以来の性の遍歴が吐露される一方、その体験が「「彼」と呼んでおきたいある人物の性の歴史」と客観的に位置付けられている。つまり、ここでも「ノリ」/「シラケ」の二重戦略が取られていると言えよう。

収録中にも発言した通り、上記のような浅田の戦略を継承していると思われるのが、東浩紀の「オタクから遠く離れて」(『Quick Japan』97・10)である。「オタクから遠く離れて」では、上段に《遠く離れて》、下段に《オタクから》という章がそれぞれ配置される。上段がサブカルチャーの歴史を辿る客観的な記述であるのとは対照的に、下段はそのなかで「僕」が辿ってきた私的な変遷が述べられる。そして最終章では《オタクから遠く離れて》と両系列が「僕」という話者に統合された上で、結末の部分では「フェティッシュ&ロジカル」とその分裂がポップに肯定されている(「おお、まとまったじゃないですか。こんなふうな感じなんですよ。ねえ。」とこの文章は締め括られる)。(3)

以上を踏まえて再説すれば、批評とは「僕」=「ゲイ」(浅田)=「オタク」(東)という論じられる対象に論者自身がフェティシズム的に固執しながらも、同時にロジカルな視線によってそこから「遠く離れ」たメタ視点が確保されねば成立しない(しなかった)営為であると言えよう。「上下分ち書き」という形式は、その下段において「ゲイ・リベレーション」特集や『Quick Japan』を購読する読者共同体を鼓舞しつつ、上段の理論的記述によって彼らに分析の眼差しを差し向ける批評という書き物の二重性を体現しているのだ(4)。



(1)別のところで浅田は、フェルナンデスを「フランスの同性愛作家」と紹介している(「同性愛はいまだにタブーか」(『VOICE』98・6、『批評空間』アーカイヴで閲覧可能。19年12月現在。http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice9806.html

(2)「対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位(エレメント)であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである」(浅田彰『構造と力』「序に代えて」)。

ちなみに、収録時、東による「分ち書き」形式の試みは、デリダの『割礼告白』や『弔鐘』からヒントを得ている可能性を左藤青から示唆された。ただし、ここではその形式によってもたらされる対象への固執と批判的吟味を同時に含む「遠く離れて」という身振りが、批評の文脈で有している(きた)意義について簡単に述べた。

(4)ただし、『現代思想 特集レズビアン/ゲイ・スタディーズ』や『実践するセクシュアリティ』に収録された座談会等でも浅田が一貫してその二重性を「運動」と「理論」と区分しているのに対して、東においてはそれが批評の読者との関係性として脱政治化――東はそれを旧来とは異なる意味での「政治」と捉えるのかもしれないが――されている。
 ここで『ゲンロン0 観光客の哲学』にて東が、「必要と欲望」に追従する「下半身」と「理性をもって熟議する」「上半身」という、「分ち書き」形式にも通じる「二層構造」のモデルによって現代社会を把握していたことを想起したい(「第3章 二層構造」)。「資本主義的、革命的――東浩紀の広告戦略について」(https://daisippai.hatenablog.com/entry/2018/10/26/200000)で指摘される通り、東の批評は、提起される内容(欲望の下半身/理性の上半身という「二層構造」のモデルや、「誤配」という哲学的テーゼ)と彼のスタイル自体(下段に置かれたオタク的記述/上段に置かれた理論的記述という「上下分ち書き」の形式や、「広告」を志向するそのキャッチーな文体)が密接に対応しているのである。
 『ゲンロン』の巻頭言などを通じて「批評とはなにか」(「批評とは病である」「批評とは幽霊を見ることである」「批評とは距離の回復である」etc…)が近年の東によって反復的に問い続けられるのも、それが批評を定義付ける内容上の問いであるとともに、(むしろそれを超えて)批評の新しいスタイルを模索する試みであるために他ならない。


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