大失敗のRadio-Activity 第二回(前半)「京都駅ビルのアンチ・モダン」(ゲスト:松田樹)

第二回



2018年に爆誕した前衛批評集団「大失敗」がラジオにも進出。日本や世界で起きている様々なアクチュアルな出来事について、赤井浩太左藤青で語っていくひとつの「アクティヴィティ」です。
第二回は長さの関係で二分割! 今回から、二ヶ月に一回程度様々な場所に行って、その場所や都市や建築について批評を加えていく「大失敗散歩」をしていきます。今回は、ゲストに中上健次研究者の松田樹さんをお迎えしつつ、京都駅ビルにいってきました。
京都駅ビルは原広司による建築。原広司による建築の背景、その是非などについて語っています(外ロケ部分は若干聞きづらいものとなっていますのでご注意ください)。また、原広司と交流のある大江健三郎についても言及しています。


ラジオ後、なんと松田さんが内容についての注釈をつけてくれました!とても詳しく書いてくれているので、お聞きいただいた後にお読みいただくとより知識が深まるかと。

以下松田さん。


『大失敗』ラジオ注釈・第二回(前半)(松田樹)

大江健三郎における「建築」の問題
収録中では、大江健三郎が井上光晴の小説について「建築」という語を用いて批判的に言及していると述べた。正確には、大江は井上の小説が持つ「建築」=「構造的」な性格を評価しつつ、それが「混沌」にまで発展して行かないため、(小説の長短にかかわらず)「長篇」というよりも「中篇」と呼ぶに相応しいと批判している(大江健三郎・江藤淳編『われらの文学20井上光晴』、大江健三郎「解説」)。なお、参考までに、大江文学(のみならず戦後日本文学)と「建築」の問題については、石川義正『錯乱の日本文学』に詳細な言及がある。ただし、石川は、以下に見るような「集落」ではなく、「塔」的なものへの関心から大江における「建築」の問題を分析している。

*「谷」の形式をした京都駅ビルの「集落」的構造 ≒ 大江健三郎「谷間の村」?
1990年 JR京都駅改築について国際的コンペを開催
   ←1990年8月〜91年7月 内子町立大瀬中学校設計
1991年 コンペ審査にて原広司氏案が決定    
   ←1991年10月〜92年7月 内子町立大瀬中学校施行
1993年 12月 京都駅ビル建設工事着工
1997年 7月12日 JR京都駅開業(https://www.kyoto-station-building.co.jp/about/を参考にした)


ここからは、原広司が手掛けた京都駅ビルの建築が、同じく原のデザインによる大江の母校・大瀬中学校の建て替えのプロジェクトと並行して進んでいることが読み取れる。また、原と大江は、大瀬中学建築に際して、両者の関心の近さが窺われる、以下のような文章を記している。
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(大江健三郎の母校・愛媛県喜多郡内子町立大瀬中学校。設計は原広司+アトリエ・ファイ建築研究所。写真は『GA JAPAN』創刊号1992・AUTUMNより)

・原広司「文学と建築の場所」(『GA JAPAN』創刊号1992・AUTUMN)
 大江健三郎にしても、私にしても、共同体となるものについてあれこれと考えてきた。今日、共同体の行方はほとんどわからない。この状況が、文学の現場にどのような影響を与えているか知るべくもないが、何らかのかたちで建築に現われているだろう。(中略)たまたま、大瀬の谷では、文学と建築の場所が物理的に重なり合った。もちろん膨大な大江文学に対して、建築は、文学内の一つの局所的場所とも比べるべくもない小さな点にすぎない。端的に言えば、私は大江健三郎の文学に対する一つの解釈(むしろ解釈の断片)を、建築学的に表現しようとした。

・大江健三郎「新建築が発掘される」(『GA JAPAN』創刊号1992・AUTUMN)
 原広司の解説にそくしていうなら、ここに新しく建築された中学校を先頭にした集落が、村の風景を新しく整えているのである。破壊されたものを恢復させる仕方で。その中学校を中心にすえた風景が、新しい意識において総合されなおした、つまり新しく社会化された自然の景観を村にもたらしているのである。村の小さな予算の域をこえて人々がこの中学校の実現のために努力し、いまは中学校の下方を流れる川に沿って整備するヴォランティア活動が始められている。そのような村の共同体の、新しい秩序の構想の実現は、いまやくっきりとあきらかである。


ここに挙げた二つのエッセイから窺われるように、大瀬中学校建築に際して原と大江に共通して見られる関心は、想像力を通じて失われた共同体をフィクショナルに立ち上げる(大江の所謂「破壊されたものを恢復」)ことである。だが、並行して建てられた京都駅ビルの「谷」の構造が、大江の母校が位置する「谷間の村」と類比的に捉えられるとすれば、移動の通過点である駅を「共同体」や「集落」に見立てる原の発想は興味深いとはいえ、収録中にも議論になった通り、それが今日有効に機能しているのかは些か疑問であろう。

例えば、イベント用にしつらえられたという中空の舞台も————もしもその場所が当初の計画のように活用されたならば、大江の『万延元年のフットボール』を思わせる祝祭空間が演出されたかもしれないが————現在は使用が禁止されたことで既にトマソンと化していたし、我々が休日に訪れた際も百貨店やホテルが入る駅ビル上層階にはほとんど人がおらず、谷間の底辺に位置する中央改札口とバス乗り場周辺だけが京都の中心部に向かう観光客で混雑していた。




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